2015年05月23日

マリンピアものがたり 88年の歴史に幕【YOMIURI ONLINE2015年5月23日】

最終話
「忙しいときは全員で手伝う」と話す川村。皿洗いは20歳代の頃からの仕事だった(10日午前11時32分)

 長く延びた列を朝日がまぶしく照らした。閉館に合わせて飾られた小さな旗が、優しい風に揺れていた。多くのファンに愛された。一人ひとりにかけがえのない思い出があった。

 「お待たせしました。開館します」。正面玄関では、社長の西條さいじょう直彦(68)や館長の西條正義(66)らが並んで出迎えた。その中に、専務の川村隆(64)の姿があった。

 「天気も良くて、こんなに気持ちがいい日はない」

 水族館にささげた飼育員人生。晴れやかな表情に、万感の思いがこもっていた。



 窮地で拾ってくれたのが、社長の西條だった。

 川村は大学卒業後、公的な研究機関から採用の内定をもらったが、第1次石油危機の影響で取り消された。大学時代は海洋学部でひたすら海に潜り、卒業後は一時期、マリンピアでアルバイトをしていた。西條はその働きぶりから能力を見抜いた。異例の「主任」での入社は、期待の高さを物語っていた。

 すぐに任されたのがマンボウの飼育担当。1979年に「プクプク」、84年には「ユーユー」で飼育日数世界一を成し遂げた。南米チリではイロワケイルカやペンギンの捕獲に挑んだ。いつしか、社長には「会社の要」、館長からは「縁の下の力持ち」と呼ばれる存在になった。

 順風満帆だったわけではない。当時、若手と上層部の関係がうまくいっていなかった。飼育員をまとめる展示部副部長だった川村は、仲介役として板挟みになった。「このままだと若手が育たない」。職を退くことなどを打開策として提案したが、認められず、状況は好転しなかった。「辞めさせてください」。3〜4回と辞表を出し、95年、退社した。

 「若いやつの面倒をもう一度見てくれないか」。社長から頼み込まれたのは、施設の老朽化から新水族館構想が持ち上がったのがきっかけだった。6年の月日が流れていた。

 動物専門学校の講師、タクシー運転手など職を転々としたが、何か物足りなかった。若手のことも心配だった。そして何より社長には恩義を感じていた。

 「やっぱり、ここが一番落ち着く」。マスコミ向けの広報担当を一手に引き受け、新聞のスクラップや資料をファイルにとじる細かな仕事も、きちょうめんにこなした。伸び悩む若手を呼びつけ、語気強く奮起を促すなど、嫌われ役も買って出た。「こういう役割が天職なのかもしれない」。素直にそう思えるようになった。



 家族連れなど約8000人でにぎわった閉館日。フードコートの厨房ちゅうぼうでは、社長がフライドポテトを揚げ、館長はラーメンの麺をゆでていた。白いエプロン姿で皿洗いをする川村もいた。

 いつもと変わらない風景――。でも、それも今日で終わりだった。

 午後5時過ぎ、社長や館長とモノレールに乗って夕日が差し込む園内を巡ると、来館者から拍手が湧き起こった。陰で支え続け、光の当たる場所へあまり出たことがなかった川村にとって初めての経験だった。気がつくと、園内の景色がにじんでいった。数々の思い出が走馬灯のように駆けめぐった。

 閉館後、従業員一同が中央広場に集まり、打ち上げを行った。社長の西條はこう締めくくった。「一緒に仕事ができて大満足でした。皆さんに100点をあげたい」。目頭を押さえる女性飼育員もいれば、達成感に浸る男性従業員もいた。「最後まで見届けられてよかった」。川村は満足げにつぶやいた。

 88年にわたる長い歴史の最後の一ページは、小さな水族館らしく、温かみにあふれたものだった。

 マリンピア松島水族館は、これからも人々の記憶の中で輝き続ける。(敬称略)

(益子晴奈)



 「マリンピアものがたり」は、まとめて小冊子にします。詳細が決まりましたら、紙面でお知らせします。
http://www.yomiuri.co.jp/local/miyagi/feature/CO007069/20150523-OYTAT50005.html

ttps://archive.is/2Awsc

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