2015年08月31日

京は水もの:えにし訪ねぶらり探訪/6 巨椋池 干拓で消えた蓮の海 /京都【毎日新聞2015年8月31日】

 ■和辻哲郎も感激した巨椋池の蓮

 「蓮(はす)の花は無限に遠くまで続いていた。どの方角を向いてもそうであった。地上には、葉の上へぬき出た蓮の花のほかに、何も見えなかった」

 「風土」「古寺巡礼」で知られる哲学者、和辻哲郎(わつじてつろう)(1889〜1960)は大正のころ、舟を仕立てて巨椋(おぐら)池に遊んだときの印象をこう書き記した。夜明けとともに現れた「純粋にただ蓮の花のみの世界」は浄土をも想起させ、和辻を驚嘆させた。

 京都市伏見区と宇治市、久御山町にまたがる周囲16キロ、面積794ヘクタールの巨椋池は古くから蓮の名所として知られ、江戸時代の名所図会(ずえ)などにも登場する。

 明治末には鉄道会社も集客に努め、多くの観光客でにぎわった。和服姿の女性が蓮見を楽しむ写真や、日本画家・須磨対水(たいすい)(1868〜1955)が描いた蓮酒を楽しむ男性らの姿が当時の雰囲気を伝える。

 ■干拓で姿を消す

 だが古くは万葉集にも詠まれ、平安貴族が水に映る月をめでた巨椋池も昭和に入り干拓で姿を消した。

 坂本博司・宇治市歴史資料館長は「木津川、宇治川、桂川の水が山城盆地の一番低いところに集まる自然のダムが巨椋池なんです。大昔は細い川がからまるように流れ、干拓前のように大きな池ではなかった。しかし徐々に土砂がたまり、水域が広がった。天下統一後の太閤堤や、明治期の治水対策にもかかわらず大雨が降るとすぐにあふれる。付近の田んぼは『3年に1度が平年作』と言われたほど。明治の終わりごろには干拓しかないと分かっていました」と言う。

 河川改修に伴い宇治川と切り離され、水質悪化も深刻化。美しい蓮が咲き乱れた湖沼も、実はマラリヤの温床となった。その結果、1933年に国営干拓事業第1号として着工、41年に広大な農地に生まれ変わったのである。

 余談だが巨椋池干拓の指揮を執った可知貫一技師は「忠犬ハチ公」で有名な上野英三郎・東京帝大教授の愛弟子。八郎潟干拓の構想もまとめた農業土木の重鎮だった。

 ■よみがれ巨椋池

 干拓後の巨椋池は広大な農地や、70年代に開発された向島ニュータウンに生まれ変わり、京滋バイパスや第二京阪道路などが通る。かつての面影はなく、ここが大きな池だったことを知らない住民もいる。

 その姿を復元しようと今年夏、京都大防災研究所の宇治川オープンラボラトリー(伏見区)に200分の1サイズの「巨椋池流域模型ビオトープ」が姿を見せた。

 干拓前の巨椋池周辺10キロ四方の地形を約50メートル四方で復元。蓮やオグラコウホネ、ムジナモなどを植栽し、宇治丘陵には茶、男山や天王山にはタケ、向島にはヨシを植えるなど、30年当時の生態を再現した。

 プロジェクトに取り組んだ澤井健二・摂南大名誉教授(66)は「大正時代の巨椋池は植生も豊かで、漁業も盛ん。多くの鳥を目当てにハンターも集まった。のんびりと楽しい空間だった。そんな豊かな生態系を実感してほしい」と話す。

 治水の専門家だが、親水空間としての河川の重要性に注目し、ここ20年ほどはビオトープ造りに情熱を注いできた。「干拓前の姿は失われたが、田んぼに網の目のように掘られた水路の護岸を緩やかにしたり、砂州をつくるなどの工夫をすればある程度の自然再生は可能だ。ビオトープがそのきっかけになれば」と期待している。

     ◇

 すっかり姿を消した巨椋池だが、53年9月、あるきっかけで突如その姿を人びとの前に現した。次回(9月21日)はその出来事を紹介する。【榊原雅晴】
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20150831ddlk26040332000c.html

ttps://archive.is/HSGr0

posted by BNJ at 22:29 | Comment(0) | 野鳥ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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