2017年04月11日

野生に戻ったトキ(上)(下)【nippon.com2017年4月11日】

2003年、最後の日本産のトキであるキンが死んだ。しかし、中国で同種のトキが再発見されたため、人工繁殖に成功。キンの死がトキの絶滅とならなかった。Nipponia nipponの学名を持つトキと日本人の関係を紹介する。
最後の1羽
佐渡トキ保護センターにトキの「キン」を訪ねたのは、2003年の春のことだ。国内で最後の1羽となった「キン」は、2.5メートル四方ほどのケージのなかで、両目がみえず弱りきってマットの上でうずくまっていた。

日本最後のトキの「キン」(新潟県新穂村の佐渡トキ保護センター)(時事、写真提供:同センター)

その年の10月10日の朝に死亡したのを、ニュースで知った。アルミサッシの高さ1メートルほどのところに激突して頭を打ったのが死因だった。最後の力をふりしぼって、もういちど大空を飛びたかったのだろうか。36歳。人間でいえば100歳を超える大往生だった。
こんなことを連想した。米国オハイオ州のシンシナティ動物園。1914年9月1日のことだ。ワシントン初代大統領の夫人から名をもらって「マーサ」と名づけられた1羽のリョコウバトが、止まり木から落ちて死んだ。リョコウバトの最後の生き残りだった。
かつては30億羽以上が、空が暗くなるほどの巨大な群れになって米国東部を渡っていた。しかし、肉をとるために徹底的に殺戮(さつりつ)され、さらに開拓のためにねぐらの森林が破壊されて、1901年に野生は姿を消していた。
幸運なことにキンの死はトキの絶滅にはならなかった。中国で同種のトキが再発見され、日本でその人工繁殖に成功したからだ。
42年ぶりに「純野生」が巣立ち
佐渡では人工繁殖したトキの放鳥がつづけられて、順調に数が増えている。2016年6月1日、自然界で生まれ育った両親同士から生まれたヒナが、ついに巣立った。待ちに待った「純野生」のトキの誕生だった。数日前から待ち構えていた環境省のレンジャーや保護活動の関係者らは歓声に包まれた。
「純野生」のヒナが巣立つのは、1974年に野生のトキの巣立ちが確認されて以来42年ぶりのことになる。その後も「純野生」は6羽が順調に巣立っていった。放鳥されたトキには、標識の足輪がつけられているが、「純野生」には足輪がない。

巣材を運ぶトキ

2016年は放鳥された親から生まれたヒナ34羽も巣立ち、計40羽の巣立ちは08年の放鳥開始以降の最多記録になった。今後とも「足輪なし」のトキが続々と誕生していきそうだ。
人の手によらずに世代交代が進むことは、野生復帰の究極的な目標だ。環境省佐渡自然保護官事務所の広野行男首席自然保護官は「今回の巣立ちは、真の野生復帰に向けて大きな節目を迎えたことになる」と語る。
日本人との古い関わり
トキは日本の歴史や文化のなかに深く根を下ろしている。トキのもっとも古い記録は、奈良時代の720年にかかれた『日本書紀』までさかのぼる。その中の3カ所に「桃花鳥」として、天皇の陵(墓所)の地名に登場する。当時は、トキの羽色を桃の花にたとえてこう呼ばれていた。
平安時代の927年に書かれた法令集『延喜式』(えんぎしき)には、伊勢神宮の宝刀である「須賀利御太刀」(すがりのおんたち)の柄の部分に、2枚のトキの羽が巻きつけてあることが記されている。
20年ごとに社殿を造り替える式年遷宮(しきねんせんぐう)は、持統天皇治世の690年にはじまり、戦国時代の中断をはさんで2013年の第62回式年遷宮まで、約1300年にわたって継承されてきた。このとき、建物だけでなく納められた宝物や装束も同時に新調するのが慣わしだ。
1993年の第61回遷宮のとき、難問が持ち上がった。宝刀を新調したのはいいが、柄に巻きつけるトキの羽がない。この年、トキは絶滅の危機にある「希少野生動植物」に指定された。たまたまトキの羽を所蔵していた人から譲り受けてしのいだ。
鳥追い歌にもなった厄介物
江戸時代になると、さまざまな記録にトキが登場する。加賀藩(現在の石川県)には、1639年に近江(現在の滋賀県)から100羽のトキを取り寄せて小矢部川流域に放した、という記録がある。目的は矢羽根の材料の確保だった。佐渡島とともに能登半島に最後まで生息していたトキは、このとき放鳥した子孫ではないかという説がある。
徳川将軍の記録『徳川実紀』には、歴代将軍の狩りの模様が詳しく述べられている。その中に8代将軍吉宗が鷹狩りでトキを捕まえた記録が2回出てくる。場所は東葛西(現在の東京・江戸川区)の中川のほとりだ。
八戸藩(現在の青森県東部)の『八戸藩日記』をみると、トキはかなりの厄介物だったようだ。1737年6月14日の項には、「トキがあちこちで田んぼを荒らして困っているという訴えが、代官所からあった」とある。そこで藩は代官に対して、被害のあった3つの村に「トキ以外の鳥は一切撃たないように」という条件つきで3丁の鉄砲を貸すことを許した。
東北地方や新潟県などの各地に伝わる「鳥追い歌」には、トキへの恨みがこもっている。田畑から鳥を追い払う行事のときに、主として子どもらが歌った。新潟県小千谷市で歌われたのはこんな歌詞だ。
〽おらがいっちにくいとりは/ドウとサンギとコスズメ/おって給え田の神
(私が一番憎い鳥は、トキ〈ドウ〉とサギ〈サンギ〉とスズメ〈コスズメ〉だ。田の神さま追っ払ってください)
珍しい鳥ではなかった
将軍吉宗の命でまとめられ全国の博物誌、『享保・元文諸国産物帳』は、日本各地からトキの生息が報告されている。記載されたのは、北海道、東北、関東、東海道の一部、信越、北陸、近畿地方の北部、中国地方の対馬などである。
ドイツ人のシーボルトは、1823年にオランダ東インド会社の商館付医師として来日した。博物学にも関心の高かったシーボルトは、日本の動植物を熱心に研究、集めた膨大な標本をオランダに送った。
オランダ商館長の江戸参府に同行して長崎から江戸に向かう途中、琵琶湖のほとりでよくできたトキのはく製2体を買い求め、「トキはこの辺りの田畑によく姿を見せる」と書き残している。
シーボルトがオランダへ送った標本をもとに、ライデン自然史博物館の初代館長だったC.J.テミンクらが学名をつけ、最終的に1871年にトキの学名がNipponia nipponと決まった。1922年に、日本鳥学会はこの学名を採用し、トキは名実ともに日本を代表する鳥なった。
絶滅へ向かう
明治維新後、日本で肉食の習慣が広まり、人口の急増とともに、開発が進んで生息地が破壊された。政府の殖産政策の支援もあって輸出用の羽毛(ダウン)の需要が急増したため、トキも乱獲されるようになった。国内でも、トキの羽毛でつくった羽ぶとんは柔らかいとして評判になり、生産が間に合わないほどだったという。
トキの羽は、養蚕場、茶室、仏壇のチリ払い用の毛ばたきにも使われた。さらに欧州で流行した婦人帽の飾りとして輸出された。トキの肉は、煮ると汁が赤くなって気味悪がられ、味もよくなかったといわれるが、女性の冷え性や貧血に効くと信じられ、薬用にされた。
追い詰めた銃と農薬
トキの殺戮に拍車をかけたのは、1879年に発明された村田銃の普及である。江戸時代には、武士や漁師など一部しか所持できなかった銃が、明治以後は許可制で庶民も持てるようになった。このため狩猟がブームになり、95年には狩猟人口は20万人を超えた。現在の狩猟免許所持者の数と変わらない。彼らがトキやコウノトリの運命を大きく変えた。
1860年代後半から1900年までのわずか40年足らずの間に、生息数が壊滅するような大きな打撃を被り、10年代に入ると目撃情報が急減した。25年の県の報告書「新潟県天産誌」には、「濫獲(らんかく)ノ為メ、ダイサギ等ト共ニ其跡ヲ絶テリ」と、トキの絶滅を伝えている。新潟県は懸賞をかけて捜索した結果、31年に2羽が目撃された。
第2次世界大戦がはじまると、燃料の不足から薪炭のために乱伐されてねぐらがなくなった。戦後は50年前後から佐渡でも農薬が広く使われはじめた。農薬汚染によって、ドジョウやカエルなど餌になる水生動物が姿を消した。60年代中ごろに死亡した2羽のトキの体内から、農薬が検出された。
アジアでも絶滅
トキは東アジアには広く分布していた。中国前漢時代の歴史家、司馬遷の『史記』によれば、秦の始皇帝は庭園にトキを飼っていたという。北は吉林省、南は福建省、西は甘粛省(かんしゅくしょう)まで、広い範囲に生息していたが、20世紀前半に激減し、1964年に甘粛省で目撃されたのを最後に消息を絶った。
ロシアでは、アムール川やウスリー川流域、ウラジオストク周辺などで見られた。19世紀後半から減少しはじめ、49年にハバロフスク、60年代初期にはウラジオストック周辺で姿を消し、81年のウスリー川で目撃されたのが最後になった。
朝鮮半島にもかつては多数のトキが生息し、20世紀初頭には数千羽を超える大群が観察されたといわれる。78年に非武装地帯(DMZ)で4羽のトキが発見され、捕獲して佐渡の保護センターに移す計画が進められたが、実現しないまま翌年には姿を消した。台湾でも20世紀半ばまでは目撃の記録がある。
トキの不幸は里山の樹上に巣をかけて、近くの水田や湿地で水や泥の中で両生類、甲殻類、魚類、昆虫などに依存していたことだ。19世紀半ば以降、開発によって湿地が消失し、さらに森林伐採、水田での農薬散布、狩猟などによって、トキの生息数は激減した。(文中敬称略)

田植え前の水田で餌を探すトキ

撮影=土屋 正起
バナー写真:冬、雪の水田で餌を探すトキ
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環境自然野鳥

石 弘之  ISHI Hiroyuki[ 署名記事数: 9 最終更新日: 2017.04.11 ]
環境ジャーナリスト・環境学者。朝日新聞社編集委員を経て、国連環境計画(UNEP)上級顧問(ナイロビ、バンコク)、東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使、北海道大学大学院教授などを歴任。この間、国際協力機構(JICA)参与、東中欧環境センター理事(ブタペスト)、日本野鳥の会理事などを兼務。主著に『地球環境報告』『キリマンジャロの雪が消えていく』『名作の中の地球環境史』(岩波書店)、『私の地球遍歴―環境破壊の現場を求めて』(講談社)、『鉄条網の歴史』『感染症の世界史』(洋泉社)など。
http://www.nippon.com/ja/features/c03908/

野生に戻ったトキ(下)【nippon.com2017年4月11日】
世界の鳥類保護の関係者の間で、絶滅の危機が心配されたトキ。環境庁は生き残ったトキを捕獲し、人工飼育に踏み切った。しかし次々と死んでいき、一羽だけが残った時に中国から朗報が届いた。野生のトキが見つかったというのだ。
トキの生態
トキの仲間は全世界に25種が生息する。このうちトキを含めて6 種が何らかのレベルの絶滅危惧種に指定されている。トキの全長70〜80センチ、翼を広げると130〜160センチ、くちばしは15〜18センチある。オスは体重1.8〜2キロ。メスはひとまわり小さい。顔と足首は皮膚が露出して赤い。

トキ。ペリカン目トキ科。朝鮮、中国、日本に分布していたが、その数は激減し絶滅のおそれがある。特別天然記念物、国際保護鳥に指定されている。

通常は数羽から十数羽の群れで行動する。直径60センチほどの巣をつくり、4月上旬に3〜4個の卵を産む。繁殖期のトキは非常に神経質で、巣に人間や天敵が近づくとすぐに営巣を放棄してしまう。

初雪の頃のトキ色が最も美しい

「朱鷺(とき)色」ということばは死語になったが、少し黄色味がかかった淡くやさしい桃色のことだ。羽の色は非繁殖期には大部分が白色だが、風切り羽と尾羽は朱鷺色を帯びる。繁殖期の前の1月下旬ごろから顔の周辺の首の皮膚が黒色に変わり、そこから剥がれ落ちる黒い粉状の物質を体にこすりつけて、頭部や背面が灰黒色に変わる。鳥類の中でトキだけに見られる珍ししい変色方法だ。
佐渡島で生きていた
絶滅が心配されたトキは、佐渡の山中でひっそりと生きていた。1930年に佐渡の両津市で開かれた新聞社主催の会合の席上、新穂村 (現在の佐渡市) の後藤四三九(よさく)が「奥山にはまだトキが生きているのをこの目で見た」と証言した。
この目撃談が新聞に載り、鳥類学者や政府の役人らが駆けつけてきた。大々的に調査が行われた結果トキが見つかり、33年には新穂村で営巣も確認された。再発見のころは60〜100羽ほど生息していたといわれる。34年には天然記念物に指定され、その後52 年には特別天然記念物に格上げされた。
第2次世界大戦の開戦とともにトキは顧みられなくなった。戦中・戦後にかけて、佐渡でも深刻なエネルギー不足のために、薪炭用に大量の木が山から切り出された。大戦が終わり、新穂村の農業・高野高治は、毎日のように水田にトキが餌をとりに来るのに気づいた。30年ごろには27羽が集まったこともあった。しかし、年々数が少なくなっていく。
山が丸坊主になったため冬に餌場になる沢が雪で埋まって、餌が取れなくなったためと考えた。見かねた高野はサワガニやカエルを集めて水田に放した。やがて、餌を持ち寄ってくれる人も増えてきた。50 年から75 年ころまでの25 年間、10〜20 羽が維持されたのは、地域の人びとのおかげだ。
ついに野生が絶滅
一方、1920年代には島根県の隠岐諸島にも、多数のトキが生息していた。ここでも、狩猟や開発によって追い詰められ50年を最後に生存の情報は途絶えた。
もうひとつの生息地の能登半島では、29年に眉丈山(びじょうざん)でトキの生存が確認された。その10年後には17〜18羽の群れが見つかった。しかし64年には「能里」(のり)と名づけられた1羽になり、70年に捕獲して佐渡トキ保護センターに移された。この時点でトキは飼育が1羽、野生が10羽にまで減っていた。
65年から、佐渡で保護された2羽の幼鳥の人工飼育が試みられた。だが、翌年に1羽が死に、解剖の結果体内から農薬が検出された。このため、67年に佐渡の清水平に安全な餌を供給できる「佐渡保護センター」が建設された。
世界的な危機感の高まり
このころ、トキの保護は国際問題になった。日本にだけで生息が確認されているトキが、このままでは地球上から消え去るのではないか。危機感が世界の鳥類保護の関係者の間で高まった。
国際鳥類保護会議(ICBP、現在のバードライフ-インターナショナル)のディロン・レプリー会長は、1979年に当時の大平正芳首相に手紙を送り、その中で「できるだけ早くトキの成鳥を捕獲し、人工飼育のもとで増殖をはかるべきだ」と提案した。
さらに、国際自然保護連合(IUCN)からも、環境庁あてに同様の手紙が送られてきた。
捕獲するか自然状態で保護するか激しい議論の末、環境庁は人工飼育に踏み切った。81年には佐渡に残された野生のトキ5羽 (オス 1 羽、メス 4 羽) すべてが捕獲され、センターで人工飼育されることになった。ついに野生のトキは絶滅した。捕獲したものの、センターでは次々と死んでいき、ついにキンだけになった。
中国からの朗報
1981年6月29日、中国の国営通信「新華社」が、暗い空気を吹き払うようなニュースを送ってきた。「陝西省(せんせいしょう)洋県の山中で幼鳥を含む7羽のトキが見つかった」というのだ。中国科学院動物研究所が「絶滅」の確認のために調査を行っていたところ、5月23日に野生のトキを発見したという記事だ。7羽は2組のペアに3羽のヒナだった。彼らがトキの絶滅を間一髪で防ぐという重責を果たした。
その7羽を捕獲して、北京動物園では世界初の人工繁殖に成功した。その後は陝西省の3ヵ所、河南省、浙江省の各1ヵ所の計5ヵ所にも飼育研究センターが設けられ、繁殖は順調に進められていった。
中国と日本のトキは、遺伝的に同種であることが確かめられた。かつて、トキの一部は日本と大陸間を渡っていたとする説が、証明されることにもなった。85年、そのうちの1羽のオスの「華花」(ホアホア)を借りて佐渡に運び、メスのキンとの人工増殖をはかったがうまくいかなかった。2003年のキンの死亡によって、 日本生まれのトキは絶滅した。
中国で繁殖に成功した陰には政府の努力もあった。陝西省洋県のトキ自然保護区は380平方キロもある広大なものだ。同県政府は、保護区内で化学肥料と農薬の使用、鉱山での爆破作業を禁止するなど相次いで法令を広布した。
今では人工繁殖と自然繁殖を含めて中国のトキは2000羽を超え、その半数は野生化している。放鳥したものやその子孫は、すでに陝西省各地の1万5000平方キロメートルに分散し生息しているという。
中国産トキの活躍
中国の国家主席の江沢民は1998年に来日して天皇陛下に謁見したとき、日中友好の証として中国産トキのつがいを陛下に贈呈することを表明した。翌99年1月にオスの「友友」(ヨウヨウ)とメスの「洋洋」(ヤンヤン)が新潟空港に到着した。2羽は佐渡トキ保護センターで飼育され、人工繁殖が試みられた。この時点でキンは生きていたが、高齢のため繁殖はできなかった。
このほかに3羽が日本に貸与された。この3羽から生まれた子どもの半数は中国に戻すという約束だった。2016年までに7回にわたって47羽が中国に返された。
1999年5月には最初のヒナが誕生し、公募で「優優」(ユウユウ)と名づけられた。これが佐渡トキ保護センターではじめての誕生になった。大ニュースになり、地方自治法施行60周年の 千円記念銀貨のデザインにもなった。
2000年にはユウユウのお相手として、中国からさらにメスの「美美」(メイメイ)を借りた。「友友と洋洋」「優優と美美」は、パイオニアの役割を果たした。この2つのペアをもとに多くの子孫が誕生した。07 年には 100 羽に達した。

自然繁殖に成功したトキ親子。2004年5月25日にふ化したひな(中央)。左は優優(ユウユウ)、右は美美(メイメイ)。新潟県佐渡郡新穂村。(時事、佐渡トキ保護センター提供)

16年10月現在、佐渡トキ保護センターと佐渡トキ野生復帰ステーションを合わせて173羽にまで増えた。環境省は、20年度までに佐渡島で220羽まで増やすことを目指している。
野生下のトキの推定個体数(2016年8月23日現在)

放鳥トキ 野生生まれ(足環なし) 2013年生まれ 2014年生まれ 2015年生まれ 2016年生まれ 計
合計羽数 233 42 4 16 9 28
生存扱い 118 32 4 10 7 28 199
行方不明扱い 12 4 – – 2 – 18
死亡扱い 83 5 – 5 93
死亡(死体確認) 17 1 – 1 19
保護・収容 3 – – – 3
注)「行方不明扱い」=6ヶ月以上1年未満未確認/「死亡扱い」=1年以上未確認
注)野生生まれ(足輪なし)の生存扱い羽数は推定値
野生復帰をめざした放鳥開始
2007年から野生に復帰させるための訓練をする「順化ケージ」での飼育がはじまった。08 年9月25日、佐渡市小佐渡山地で足輪をつけられた最初の10 羽が放たれた。自然界で番(つがい)ができ巣づくりして産卵まで進んだが、無精卵だったり天敵のカラスに襲われたりして子づくりは成功しなかった。
10年3月には順化ケージにテンが忍び込んで、10羽中9羽が殺され1羽がケガをする事件もあった。しかし、12 年に放鳥された番から次々にヒナが生れて、合計 8 羽のヒナが巣立った。16年には17羽が放鳥された。
放鳥後に数羽が佐渡島を離れて、本州の長野、富山、石川、福井、山形、秋田、宮城、福島の各県にも飛来した。いずれは、以前のように全国各地でトキが見られる日がくるかもしれない。
韓国でも中国生まれががんばる
中国は日本以外にも韓国にトキを贈り、パンダとともに動物外交の一翼を担っている。中国の胡錦濤国家主席は2008年10月、韓国にトキの1ペアを寄贈した。チャーター機で慶尚南道の「牛浦沼トキ復元センター」に運ばれた。翌年には4羽のヒナが孵化し、16年は約171羽まで増えた。17年には一部を自然に返す予定だ。
トキのいる風景
佐渡島の形はアルファベットの「Z」に似ていて、南と北に並行してそびえる1000メートル級の山地、その間にはさまれた国仲平野からなる。この平野が水田地帯でトキの餌場だ。来島する前に、「野生のトキが見られますか」と「佐渡とき保護会」の土屋正起副会長に電話で尋ねたら「そこいらにいくらでもいるよ」という返事。実際に水田地帯を1時間ほど車で回っただけで20羽ものトキを目撃した。
この当たり前になった風景は、島の人々の並々ならぬトキにかける愛情に支えられている。トキが島のどこにいて何をしているか、目撃した人が随時、環境省のトキ・モニタリングチームに連絡する。島外ナンバーの車がカメラでトキを追うと、すぐに誰かが飛んできて注意する。島の人は「無関心の関心」とか「見守り」という言葉をよく使う。

トキを驚かさないようにして見回る

刈り取りの終わった田んぼはトラクターで幾筋もの溝が掘られ、そこに溜まった水に餌になる生き物が集まってくる。水田に農薬や肥料を極力散布しない、巣に近づかない、追い回さないなどのルールを決めて見守っている。土屋は「トキがいない佐渡なんて誰も関心がないでしょう。私たちはトキを助けたけれど今ではトキに助けられている」と語る。
(文中敬称略)
撮影=土屋 正起
バナー写真:8月、繁殖が終わって群れになりだした頃のトキたち。ダイサギが1羽だけ同じ木に止まっている
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石 弘之  ISHI Hiroyuki[ 署名記事数: 9 最終更新日: 2017.04.11 ]
環境ジャーナリスト・環境学者。朝日新聞社編集委員を経て、国連環境計画(UNEP)上級顧問(ナイロビ、バンコク)、東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使、北海道大学大学院教授などを歴任。この間、国際協力機構(JICA)参与、東中欧環境センター理事(ブタペスト)、日本野鳥の会理事などを兼務。主著に『地球環境報告』『キリマンジャロの雪が消えていく』『名作の中の地球環境史』(岩波書店)、『私の地球遍歴―環境破壊の現場を求めて』(講談社)、『鉄条網の歴史』『感染症の世界史』(洋泉社)など。
http://www.nippon.com/ja/features/c03909/

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